東福寺 福島慶道住職

今回は臨済宗東福寺派元管長福島慶道先生の書です。
カフェのお客様が元通信社に勤務されていて、
その会社時代にお付き合いのあった関係者数十名が、
毎年東福寺の紅葉が綺麗な時に集まり、
福島慶道管長のご講話を拝聴し、
座禅を体験、精進料理を戴く催しがあり、
その事前打ち合わせや、ご挨拶を兼ねて管長と会われる時に、
私も誘われ同行させて頂き、
お二人で管長のお話をお聞きするという、
貴重な体験が出来ました。
館長のご経歴は下記を参照して頂くとして、
翌年の干支を1,500枚色紙に掛かれ、
知り合いにお渡しされておりましたが、
我々にも分けて頂けました。

福島慶道 - Wikipediaより
1933年(昭和8年)、現在の兵庫県神戸市に生まれる。1944年(昭和19年)、小学6年生の時に空襲を避け、神戸市内から集団学童疎開で、岡山県総社市にある、東福寺派の宝福寺へ行き、そこで福島慶道は最初の師匠である岡田熙道に会ったのです その後神戸市に戻り、焼け野原になっていた神戸で、親代わりをしていてくれた祖母と 一緒に暮らしていました。祖母は昔の女学校を出た人であって、厳格で教育熱心であった。敗戦も間近い1945年(昭和20年)6月5日の大空襲で生家は焼け崩れました。そして三つ年上の姉は病気の身体で無理して空襲から逃げたのがたたって病死した。しかし福島慶道はその時12歳で旧制中学にあがったばかりでしたが、戦災で休校となり、疎開した岡田熙道のいる宝福寺にいたので、その姉の死に目にあえなかったのである。その姉の死から僅か1年後、1946年(昭和21年)4月3日には祖母を亡くした。当時流行していた発疹チフスに、祖母と福島慶道が同時に感染し、二つ並んだ蒲団で医者の診察を受けている時に、祖母が急に亡くなってしまったのである。[2]

得度から大谷大学大学院修了迄[編集]

中学の漢文で習った「一子出家すれば九族天に生ず」という一句を思い起こし、福島慶道は自分が出家して二人の霊を弔おうと決心したのである。 ただ最初は生家の宗旨が真言宗であったが、その前に宝福寺の岡田熙道に出家に関して相談することとした。 そして1947年(昭和22年)14歳で宝福寺の岡田熙道について得度。岡田熙道の諱は「元享」といい、その一字をとって「元照」と名づけられた。 その後高校を卒業するまでは、宝福寺で岡田熙道老師のもと厳しい小僧生活をした。そして1952(昭和27年)年には南禅寺派管長の柴山全慶の勧めで、京都にある大谷大学に入学した。1956年(昭和31年)大谷大学仏教学科を卒業し大学院へ進んだ。そして福島慶道は修士課程の二年間、臨済録と取っ組んできた結論として、臨済録は修行しないと読めないと認識しその後博士課程も修 了した。[3]

南禅僧堂から東福寺派管長そして遷化[編集]

1961年(昭和36年)28歳で、ようやく南禅僧堂に掛搭して柴山全慶に参じる。その後1974年(昭和49年)柴山全慶遷化の後は、柴山全慶の法嗣である山口県洞春寺高山泰巖に参禅し、嗣法する。[4] 1980年(昭和55年)東福僧堂師家に就任。そして1991年(平成3年)4月より臨済宗東福寺派管長にも就任する。1980年(昭和55年)東福僧堂師家に就任。その後は日本国内だけでなく、米国はじめ欧米での布教活動も本格化させた数少ない臨済宗の老師の一人です。(アメリカでの布教活動を参照下さい)2009年(平成21年)に僧堂師家を退任し栗棘庵に移る。そして2011年(平成23年)3月1日多系統萎縮症のため遷化。世寿79。[5]


福島申.JPG


 共に果を摘む
中国五代、周の孟貫(もうかん)の詩の一節
「猿山果ヲ」より。
山居の高潔な生き方をたたえる。
東福寺管長
  更幽軒(こうゆうけん)慶道
福島酉.JPG 

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